またしばらく放置していました。
各所でアピールしまくっているので読んでくれてる人は知ってるのかなーなんて思うんですけど、この度進学することになりまして。
脱・低学歴(まだ卒業できたわけじゃないけど…)ということで調子に乗ったり今更かーと落ち込んだりしていて忙しかったのでメンタルは崩壊しかけつつも更新できませんでした。
みなさんご存知でしょうか、失敗って取り返せないんですよ。
何かをしようと思ったときの気持ちっていうのがまずあって、そこから行動して結果が出るわけじゃないですか。
そのときの失敗って一つ一つちゃんと自分の中に残るもので、最終的に成功してよかったー!勝つまでやれば負けないから!なんてことはなくて、1回失敗して成功したらそれは1回失敗した上での成功、2回失敗して成功したらそれは2回失敗した上での成功ってことで、負けなしの勝ちとは違う、捉え方の問題ではありますが、私はそう感じるし、私じゃなくても人と比較されるとそうジャッジされることは実際にあります。
そういうのを突っぱねられる元気が私にはもうないなーとか思ってみてる今日この頃です。
私の失敗ってなんなのでしょうか。
短い期間で複数回転職したこと?大学を中退したこと?浪人生のふりをしてニートしたこと?学校への愛想を尽かしていたのに結局やめずに卒業したこと?不登校になったこと?高校生になっても高校生らしく振る舞うことができず、友達も少なく恋人もいなかったこと?
この辺にしておきましょう。
候補がありすぎて、ああ、しかもどれも紛うことなき失敗でくらくらしてくるわ。
でも、生まれた時点でこうなることは決まっていたんじゃないかと思います。
子供の頃から何かがおかしかった。
言葉が早かった。
2歳の時点で明確に理由のある人の好き嫌いがあった。
大人の「楽しいね」に「私は楽しくない」と答えていた。
説明されればなんでもできた。ある程度は説明されてなくても類推できた。
規則性がよくわかった。
作業を終えるのが人よりも早すぎていつも不安だから何度も見直しして細部を見て、「真面目だ」とか「丁寧だ」とか褒められた。
すごおい、天才感あるう。
子供時代のうちに、何人かの大人には「精神は大人だ」「もっと難しいことをやった方がいい」と言われたのに、自分がそれほど人より優れているはずがない、思い上がってはバチが当たる、今は偶然劣った人たちの中に放り込まれているんだ、確率の問題に違いない、ここで調子に乗ったら人生が壊れてしまう、と思って全て拒絶して、結果として"劣った"人たちとの関わりの中でどんどん歪んで人生が壊れたね、ほらね私はやっぱり馬鹿だった、自分の人生をドライブする能力にも人の意見を聞き入れる柔軟性にも欠けていた、どうせこんな人間はいずれ潰れるんだから早く結論に到達できてよかったね大好きな人生RTA!
でも私も必死に生きていたということは自分で認めてあげたい。周りの人を劣っていると評価したのは見下していたからというよりそうでもしないと整合性が取れなかったから。それでも、そのことは口に出さなかったのに、人を勝手に評価したことに罪悪感を抱いて自分は生まれてこないほうがいい人間だってずっと思ってたんですよ。年齢一桁の子供がですよ。
なんなら9歳ごろにはもうそこも通り過ぎて、他人の感情に対して理性でぶつかるのは失礼だと思うようになり、理性ではどうするべきかわかっている場面であえて素朴な感情でぶつかって破滅するようになりました。
その結果嫌われて、それが本来の自分の成績なんだと妙に安心していました。
そうすべきだというままに振る舞って褒められてばかりだった頃、私の能力は不当に高く評価されているとずっと感じていました。何もしなくても友達ができる。私は好きじゃないのに。何もしなくても大人に褒めてもらえる。私は頑張ってないし大人を尊敬してないのに。何もしなくても色んなチャンスを与えてもらえる。私は望んでないのに。望んでいる人が他にいるのに。
そうやって葛藤して生きていると、たまに同じように葛藤を続けてきた大人が見つけてくれることがありました。みんなすぐにいなくなりました。だって心が弱いから。
普通に生きていると本当に信頼できる人には滅多に会わないようですね。
会えないまま死んでいく人もたくさんいるようですね。
私はもう何人も見てきました。
真剣に様々なことと向き合った結果身を削ることとなり、そうすべきだと自分がわかっている通りの優しさを人に向けてみたいのにそれはずるいことのように感じるから長続きしない人々。愛すべき人々。仲間と呼びたくなる人々。
踏み込むことも踏み込まれることも無意味だとわかっているからギリギリわかるくらいの視線を交わしたらもう二度と会うことはない人々。
同じ目線で話せるだけの人たちはまあまあいるんですよ。
でも、今この歳になっても10歳年上だったり5歳以上年上かつ似たような感じで狂っている人だったりして、同じ年齢で同じところを見ている人には全然出会えません。
年齢が違うと何が悪いのかというと、その人たちは、性質は確かに似ているものの、私と同じように苦しんではいないんですよ。ベクトルはともかく深度が年齢相応であるために。
そうすると私はどうしても嫉妬してしまいます。
この人と私は同じなのにどうして私だけが苦しかったのか、これまでの時間は誰が補償してくれるのか、この人には理解者と出会えた喜びがあるのに私にはさほどの感動もなくて、どこで釣り合いが取れるのか。
あまりにも醜すぎると思いませんか。
人生をつかもうとして人に出会う。そうしたらもう人を見るべきなんですよ。人生なんて老後に1人になってから振り返ればいいんです、内向性を取っ払って手段を追求するべきなんです。人はそれを誠実さと呼びます。
私にはそのことへの憧れが持てません。
どこかで期待が裏切られることが分かりきっているんです。
自分の人生と心中するくらいの覚悟を決めてしまったから、もう人は必要ないんです。
浅く狭く、ただ生きていける最小限の関わりだけで、私は私として生きていきたい。
生まれ持った性質というのは残酷なもので、年齢と精神の乖離はどんどん加速していくように感じています。
とにかく、処理が速いんです。集中できる作業であれば、何でもかんでもすぐ終わらせることができる。得意なことはいくらでも集中できるから、偏って伸びていく。私の場合、それが言語能力で、言語能力が伸びていくと自分の精神をモニタリングしたり出来事を解釈したりする能力が上がるわけですから、精神年齢も必然的に上がっていくんです。
もう化け物みたいだと思います。
周りがどうしてそんなことで悩んでいるのかわからない。少し考えて違うことがすぐわかるようなことをみんなで共有して楽しんでいる。外部から揶揄されると真剣に怒っている。なんて無駄遣い。体力の浪費。
でもそれが社会だと思います。つまり、立派に社会活動をしているんです。
自分ばかりの厨二病患者とは違って。
私のこれを幼さと呼ぶ、そういう表現方法もあることは認めます。(とはいえ、ここまでの精神年齢の評価はあくまでも事実をそのように評価できるとした上での解釈に過ぎず、違う尺度を利用すれば同じ言葉で真逆の評価を下すことなど容易いのは自明ですよね。幼いとか老成しているとかの決着をつけてしまえばあなたは満足ですか?ねえ、馬鹿馬鹿しいと思いませんか?どうだっていいんですよそんなこと。事実を正確に共有したいんです。)
少し話を変えましょう。
好きだと思った人が全く好きじゃなくなりました。
理由は書きたくなったらまた書きます。
それで思ったんですけど、この世には多分、人を好きになる人とならない人がいるんですね。人は皆人を好きになるわけじゃないんだと思います。
後者なんだなと気付きました。
あと、上の方で、友達が欲しくないのに友達がいたことについて書きましたけど、それは子供だったから成り立ったんですよね。
今ではなんとなくうまくいかないようにこっそり仕向けているので友達になりたくないのになることはありません。
あらゆることについてこれは言えると思うんですよ。大人であれば。
したくないのにこうなった、というのは、日常における人間関係の範囲内では起こらないです。
社会問題まで拡張して読まないでくださいね。
したくないと認識していることが自己防衛ということが多い、という話です。
これを活用すると、人が何を恐れているのかがわかって面白いことがあるんですけど、その話は関係ないのでしません。
ある種の経験の不足は、人間性の判定に本当に正しく利用されますか?
疲れました。私はこういう生き物でした。それ以上のことが何も言えないことが分かりました。人は変わりません。例外なく。